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生と死、及び幸福についてーアリストテレス、ミルの幸福論からストア哲学、枢要徳に至る

①生まれてこない方がよかったのか?

→もしかしたら生まれてこない方がよかったのかもしれない。

「われわれが自分の人生を自分でどうにかすることができる機会など、そうはない。この世界に生まれたということからして、そもそも私たちが望んだことではない。私たちは自分の人生を始めるにあたって、選択することはできなかった。人生の始まりもそうだし、人生の内容もそうだ。私たちがこうした肉体を持つように生まれたことも、そして家庭、学校、職場などの環境も、どれだけ私たちの意志が通ったと言えるだろうか。それは責任という観念が成立するのか危うくなるほどだ。

責任という問題は、出生以前に私たちが相談を受け、現在ただいまそうあることがごとき人間になってよい、と同意したのでなければ、そもそも意味を持ちえないはずである。」(「生まれてきたことが苦しいあなたに」大谷崇106頁)

しかし誕生をなかったことにすることはできない。自殺でさえも誕生の否定にはなりえない。それは自殺したとしても、この世に生を受けた痕跡を完全に消すことは不可能だからだ。

また、生まれたことに何らの罪も感じる必要はない。なぜなら、生まれるか生まれないかを生まれる前にコントロールすることは不可能だからだ。

故に、以降では「生まれてから」のことを考える。

②仮に生まれてきてよかったとしても、今すぐ死ぬべきではないのか?これ以上少しでも長く生き続ける(生き続けた方がよい)理由は何か?

→基本的に、ほとんどの場合において人は今すぐ死ぬべきではない。それは生きていれば得られたであろう「良いこと」を得られなくなるからだ。死=非存在と定義すると(苦しまずに死ぬ安楽死もあるため。死の本質とは痛みや苦しみではなく、非存在の方にある)、死はそれ自体が絶対的に悪いものではないし、間接的に悪いわけでもないが、相対的に悪い。それはその後の人生における「良いこと」が得られなくなるという意味で悪い。

死(自殺)が正当化されるのは、悲しいことだが消耗性の病気などで、ただ生きているだけで地獄の痛苦を味わっており、その原因(病気など)が治る見込みがなく、これから先も存在しない方がよい(人生の質が常にマイナス=存在しないより悪い)場合に限られる。

ただ、このような状況下においては、自分自身の判断の正当性を信頼できないので、他の多くの場合と同じように、家族や友人、医者に相談することが必須である。

こうして初めて自殺は正当化される。多くの人は、「以前の自分」、「違う選択をしていたらなっていたであろう自分」、「自分以外の他者」と比べて、自分はなんて不幸なんだと思って自殺してしまう。それは正しくはない。合理的ではない。

(参考文献:『「死」とは何か』シェリー・ケーガン)

③基本的に生き続けた方がよいとして、どのように生きるべきか?残りの時間をどのように過ごすべきか?

(生きるための「標識」や「詳細な地図」はいらないが、「コンパス」は欲しい)

アリストテレスによれば究極目標は「最高善」であり、それは幸福である。我々は、各人が何を幸福と見なすかは違うにせよ、幸福を求めて生きているということに特段異論はないだろう。私たちは、「ただ生きる」のではなく「よく生きる」ことを目指しているのである。

④どうすれば幸福に生きられるのか?

→さきにも確認したが、万人に当てはまる指針や行動計画はないし(もしあったらそれは機械や動物と同じだろう)、それは各人が自身で決めればよいことである。

しかし、おおよその場合当てはまる幸福の条件や、幸福の必要条件、だいたいこの方向に幸福があるだろうという何となくを指し示すコンパスは考えることができると思われるので、これについて考える。

まず、幸福論には、「正統的幸福論」と「異端的幸福論」があると私は考える。

⑴(正統的幸福論)

アリストテレスは「幸福な人」とは、「時折ではなく人生全体にわたって、完全な徳(アレテー)に基づいて活動しており、かつ外的な善を十分に与えられてきた人」であると言っている。

「外的な善を十分に与えられてきた人」については自分ではどうすることもできないので、アリストテレスの考えに依るならば、幸福には運(幸運)も必要である。

そして、生涯にわたって、完全な徳(アレテー)に基づいて活動することが必要である。

アレテーとは卓越性や力量とも訳され、「そのもの本来の力を十全に発揮できる状態」のことである。例えばナイフのアレテーとは、よく砥がれ、切れ味が鋭い状態にあることである。人間も同じように人間に与えられた特性(卓越性)を発揮できる状態にあることが、アリストテレスの考える幸福である。(外的な善があった上でだが)

中でもアリストテレスが重要だと考える徳が枢要徳である。

枢要徳とは、

・賢慮(一つ一つの状況を的確に判断する力)

・勇気(困難に立ち向かう力)

・節制(欲望をコントロールする力)

・正義(他者や共同体を重んじることができる力)

のことである。

こうした「力」を身につけることが幸福の必要条件であるとアリストテレスは考えた。しかし、そのためには長い習慣づけの積み重ねが必要である。それは「性格」というものが、行動の繰り返しによって後天的に形成されるものだからだ。例えば戦場においては、「勇気」の枢要徳が必要なわけだが、仮に戦場から逃げるとする。それを繰り返すと、自他ともに憶病な人と認識するようになり、以降また同じような場面に遭遇したときに、逃げやすく(同じような行動を取りやすく)なる何かができてしまう。枢要徳を身につけるためには、習慣づけの長い積み重ねが必要なのだ。

また、「勇気」「節制」「正義」は「人柄のアレテー」と呼ばれる人柄(性格)に関わるもので、それらは「中庸」を意識することで徳となるのである。例えば、「勇気」の程度が小さいと「臆病」になるが、大きすぎると「向こう見ず」になるし、「放埓」と「無感覚」の中間となるのが、「節制」である。(「節制」は「抑制」とは違う。節制ある人は節制ある振る舞いに喜びを感じ、そこには葛藤がない。対して抑制ある人は、理性と欲望が葛藤しつつ、理性が打ち勝つ人のことである)(ただし「正義」の中庸は個人の問題ではなく、人間間の公平と不公平の問題に関して、同時に一方の超過・もう一方の不足となる不正に対し、双方にとっての「中間」、即ち自分と他者の「中間」を経験的につかむという意味である)

 

⑵(異端的幸福論(悪魔的幸福論))

J・S・ミルがこんなことを言っている。

私の、 幸福があらゆる行動律の基本原理であり人生の目的であるという信念は微動もしなかったけれども、 幸福を直接の目的にしないばあいに却ってその目的が達成されるのだと、 今や私は考えるようになった。 自分自身の幸福ではない何か他の目的に精神を集中する者のみが幸福なのだ、 と私は考えた。 たとえば他人の幸福、人類の向上、あるいは何かの芸術でも研究でも、 それを手段としてでなくそれ自体を理想の目的としてとり上げるのだ。 このように何か他のものを目標としているうちに、 副産物的に幸福が得られるのだ。人生のいろいろな楽しみは、それを主要な目的とするのではなく通りすがりにそれを味わうときにはじめて、人生を楽しいものにしてくれる、というのが私の新しい理論だった。一旦それを人生の目的としてしまえば、とたんにそれだけでは物足らない気がしてくる。楽しみなどというものは細かく吟味すれば必ず何かボロが出てくるものだ。自分は今幸福かと自分の胸に問うて見れば、 とたんに幸福ではなくなってしまう。 幸福になる唯一の道は、 幸福をでなく何かそれ以外のものを人生の目的にえらぶことである。(「ミル自伝」J・S・ミル 128頁)

根本を揺るがすラディカルな発想、そもそも論ともいうべきものには不思議な悪魔的魅力があるのが常だ。見方を180度回転させた論には、どうしても避けがたく惹かれてしまう魅力がある。幸福についてもそうである。

正統派の幸福論で幸福を求め、そこに近づこうと苦心しても、ふと不安になるというか、寂寞の念に駆られてしまう。自分は正しいことをしているのだろうか、自分がしていることは果たして真に幸福への道なのかと心配になる。

理論的には正しいように見えても、何となく直感的には間違っているような気がするということはある。そういう場合、大抵は誤っていることが多い。特に数学などの完全な論理の世界ではなく(もしかしたら数学の世界でさえ、直感に反するものは疑う余地があるということもあるのかもしれないが)、「幸福」といった抽象的概念を扱う哲学的思考の場合にはなおさらそうである。

少なくとも私はミルのこの主張に惹かれてしまった。一生懸命真面目に幸福について考察し、それに近づこうとしても、近づいているのかどうかさえ傍目どころか自分でさえわからず、雲をつかむような空虚さを感じてしまう。

自分自身の幸福ではない何か他の目的に精神を集中する者のみが幸福なのだ、 と私は考えた。 たとえば他人の幸福、人類の向上、あるいは何かの芸術でも研究でも、 それを手段としてでなくそれ自体を理想の目的としてとり上げるのだ。 このように何か他のものを目標としているうちに、 副産物的に幸福が得られるのだ。

ミルは幸福以外の何か他の目標に意識を集中することが、結果的には幸福である、或いはそうすることで副産物的に幸福が得られると述べている。

また、アンネマリー・ピーパーの「倫理学入門」にも、倫理学的な考察との関連では、幸福の概念に関して確定できる事柄として次のことが挙げられている。

「幸福は、目標それ自体としてそのまま直接求めることはできず、むしろそこに到達すれば満足とともに幸福が得られることが約束される具体的な諸目標を必ず媒介にしなければならない。」(「倫理学入門」アンネマリー・ピーパー 145頁)

やはり、幸福はそれ自体を求めることはできず、幸福が得られるような目標を自分で設定し、そこに集中する必要があるのである。

また、ミルはさらにこう言っている。

逆説を弄するようだが、意識的に幸福なしでやろうと努力することは、 人間の力で達成できる幸福を実現してゆくうえで最善の見とおしを与えるものだといおう。 というのは、この意識こそ、人間に、 最悪の宿命や悪運でさえも人間を屈服させる力をもたないと感じさせ、 人生のめぐりあわせに超然たらしめるものだからである。 いったんこう感じれば、人は人生の諸悪についてくよくよすることから解放される。 そして、ローマ帝国の最悪の時期にめぐりあわせた多くのストア派の哲人のように、 平静のうちに手近な満足の源泉を開発し、それに避けがたい終局があることに心を悩まさず、 さらにそれがいつまで続くかについても思いわずらうことがなくなるのである。(「功利主義」J・S・ミル)

幸福について考えるからこそ、自分が今幸福なのかを常に気にしてしまう。いわば幸福の掌の上で踊らされてしまう。幸福を顧慮しないことで、幸福に踊らされない、人生に超然と対峙できる態度を育めるのである。

そして、最後の部分に注目したい。つまり、

ローマ帝国の最悪の時期にめぐりあわせた多くのストア派の哲人のように、 平静のうちに手近な満足の源泉を開発し、それに避けがたい終局があることに心を悩まさず、 さらにそれがいつまで続くかについても思いわずらうことがなくなるのである。

である。ミルは幸福を考えないことによって、ここに至ることができると述べている。つまり目指すべき姿がこれなのではないか。ストア派の哲人たちが説いた、ストア哲学にこそ幸福となるためのヒントがあるのではないかという結論を得た。それは、単純に幸福を追い求めてそのためにストア哲学が有用というのでは決してなく、むしろ幸福を求めないことこそが幸福への道であり、そのことによって目指すべき(目指せる)姿がストア哲学なのである。故にストア哲学に触れる、もしくはストア哲学的な価値観を会得することが、結果的に最も幸福に近いのである。ストア哲学は絶対的な正解というわけではないが、少なくとも最重要の(あるいは最重要の一つの)ヒントを与えるものである。

また、「平静のうちに手近な満足の源泉を開発し」にも注目したい。

これは「穏やかな姿勢でもって足るを知る」とも解釈できると思う。例えばお金にしても、100万円があったら1000万円が欲しくなるもので、1000万円を手にしたら、1億も求めるというようにキリがない。欲望には際限がない。これではいつまで経っても幸福にはなれない。高いバッグにしてもブランドの服にしても、他人からの視線を意識してそのためにこれらを買うのではいつまでも終わりがない。ストア哲学と同時に、この「手近な満足の源泉を開発」することも同様に重要なのである。

アリストテレスも、それだけで足りる、十分であるという「自足」を幸福の条件の一つにしている。(アリストテレスは正統的幸福論アプローチ側であるが、後述で⑴と⑵の統合を図るので、ここで例を挙げた)

これが⑵の「異端的幸福論」の立場に立脚した場合の結論である。

 

⑤⑴「正統的幸福論」と⑵「異端的幸福論」の統合

⑵では、「異端的幸福論」の立場に依った場合、ミルに依れば、幸福に結果的に最も近いのがストア哲学であることを確認した。

実はストア哲学にも四枢要徳というものがある。それは、

・知恵

・勇気

・節制

・正義

である。こんなことがあるのだろうか。これはアリストテレスの枢要徳と完全に一致している(判断力という意味では、賢慮も知恵も同じ意味である)。

つまり、「正統的幸福論」の立場においても、「異端的幸福論」の立場においても、これらの徳を身につけることが、幸福に最も近いことが確認された。これらの枢要徳を会得できるように、長い習慣づけの積み重ねを日々行うことで、幸福になれる可能性がある、または結果的にもっともよく幸福に近づけるというのが結論である。

⑥補足

(確認)

⑤の統合においては、枢要徳という共通点を見い出しそこを特筆して掲げたが、実際には⑴と⑵はベン図のように重なり合っており、完全に一致しているわけではない。「正統的幸福論」的アプローチも、三大幸福論と呼ばれるヒルティ、アラン、ラッセルの「幸福論」を読むことでさらなる研究の余地があるだろう。

⑵についても、ストア哲学を完全に四つの枢要徳に還元(換言)できるというわけではなく、ストア哲学を学び、ストア哲学的な価値観の会得に努めることもまた重要なことであり、必要なことである。

まあとりあえずは、幸福が得られるような目標を何か自分で設定してそこに集中し、ストア哲学や「自足」に関連した本でも読みながら、四つの枢要徳(賢慮・勇気・節制・正義)を習慣づけられるように意識して生活するのがよさそうである。

(自殺について)

「異端的幸福論」の立場に立脚した場合、ストア哲学の重要性を既に確認したが、ストア哲学においては、深刻な苦痛や病を受けた時には自殺は正当化されうるが、さもなければ大抵の場合自殺は社会的義務の放棄とみなされた。

これは、②で確認した論と一致する。「異端的幸福論」の立場に立った場合(個人的にはこっちの立場の方が魅力を感じてしまうわけだが)、やはり自殺は、病気などが原因で生きているだけでつらく、治る見込みがなく、かつ人生の質が常にマイナス(=存在しないより悪い)場合にのみ、他人に相談した上で正当化されるということが確認された。

2023-1-3追記:

答えを求めるあまり、「こうすればいい」というような短絡的な結論を急いでしまっていた。

枢要徳を習慣づけることで幸福になろうとしていた。確かに、枢要徳を身につけることは幸福に近づけるかもしれないが、そこには意識的に「幸福になろう」という考えが見え隠れしてしまっている。

私は直覚主義に基づいて、ミルの考えを採用するので、そうであるならば、意識的に幸福なしでやろうとしなければならないはずである。

そこで、

①幸福それ自体を追い求めずに、何か他のものを目標として日々それに注力する

②「ストア哲学」や枢要徳に関しては、それが絶対的に幸福の必要条件であるとは言えないが、少なくとも幸福のヒントではある

この2つを、論考から得られた結論としたい。

https://plaza.umin.ac.jp/~kodama/ethics/wordbook/hedonistic_paradox.html