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幸福論再考(私の幸福論)ー幸福の必要条件について

何を幸福と見なすかは個々人によって違う。幸福の条件は自分で明示的に設定すればいい。それは当たり前だ。ただ幸福な人生に共通する事柄や幸福の必要条件については考察が可能だと思われるので、それについて考える。

また、全編を通じて直覚主義を採用する。アリストテレスも、倫理学はおおまかな概要(真実の輪郭)を示すことができればそれでよく、それが倫理学の目的であると「ニコマコス倫理学」に書いている。

〇人間の徳(アレテー)に従って生きる

アリストテレスの徳(アレテー)についての考察は肚落ちする。すなわち徳(アレテー)が幸福な人生の必要条件であるという論である。ナイフの徳は切れ味が鋭い状態だし、馬の徳はよく走れることである。このような状態にあるとき、ナイフも馬も幸福であるだろう。これは納得する。そのように考えれば、演繹的に人間も人間の徳をもつ(人間本来の力を十全に発揮できる状態にある)ことが幸福な人生の必要条件であると言える。(ただ、枢要徳についてはそれらの徳がその他の徳よりも優れているという根拠づけが曖昧であったり、それら四つを特筆する意義が漠としているため疑問符)

人間の徳とは何か。アリストテレスはそれを「理性」だと考える。動物や植物や無機物と人間が決定的に違うものは何かと言えば、それはやはり理性であろう。すなわち自らの頭で考える力である。これも肚落ちする。

ここで一つの論を提唱したい。それは「理性」や「道徳」に従って生きることが幸福の必要条件の一つであるということだ。

ここでいう「道徳」は、個々人の中にあるもののことで、社会通念上の社会規範とは違う。すなわちその人が本心からこれは道徳的であると考える行為は、その人にとって「道徳」なのである。今回は道徳をこのような「主観的な道徳」として定義する。その意味では、道徳も理性によって規定されるものであるため、理性も道徳も同じような意味として捉えても構わない。

とにかく、人間固有のものである「理性」や「道徳」に従って生きることが幸福の必要条件の一つであると提唱したい。

生きるためには食べることが必要であるため、過度な断食は理性的ではない。ただ、欲望のままに食べ過ぎるのも理性に従ってはいないだろう。そのときに従っているのは理性ではなく本能である。

性行動も、まったくしないというのでは自然に反しているが、常軌を逸した性行動は動物と変わらない。いや、動物でさえそのようなことはしないだろう。ある意味、動物以下であると考えることもできる(このような意味で「理性」や「道徳」に従って生きることは、アリストテレスの「中庸」と似ていると言えるだろう。すなわち行うべきことを、行うべきときに、行うべき分だけ行うということである)。本能は悪であり理性で無理やり抑圧するというのではなく、本能の助けも理性の助けも借りて、よりよい生を実現していくということが大切である。

この「道徳」を醸成したり、「理性」に磨きをかけるために、文学や映画などを利用することが有効であると考える。私は「理性」というものは生まれたばかりの頃は透明(タブラ・ラサとでも言うべきか)であり、その後の経験によって後天的に白くもなるし黒くもなるものであると考えている。文学や映画には広く受け入れられている社会通念や、それが間違っていた場合にそれに対する正義としてのカウンターが色濃く反映されているように思われる。「自分の感性や人生を豊かにするツール」として捉えられがちだが、自らの道徳を醸成したり、よりよい理性を会得するために、これらの芸術作品は利用されるべきであり、それがこれら芸術の存在意義の一つだと考える。

〇自足

もう一つ提唱したいのは、「自足」も同様に幸福の必要条件の一つであるということだ。自足とは、「自分の置かれた状況に満足すること」、「それだけで足りる、十分であるということ」である。「自足」が幸福の必要条件であるというのは、明らかだろう。なぜなら仮に1億円を持っていたとしても、その人がまだそれだけで満足しておらず、例えば10億円を欲していて、仮にその人がその額を手にしたとしても、まだそれで満足していなければ、その人はいつまでも際限なく続く欲望の連鎖に一生苦しめられることになるからである(欲望は叶えられれば快楽となるが、叶えられなければ苦痛となる。この意味でも、具体的な目標を自分で設定することは大切なのである)。だからある程度のところ(或いは自分で設定したところ)で満足する「自足」が幸福の絶対的な必要条件なのである。アリストテレスも「ニコマコス倫理学」の中で、「自足」を幸福の条件の一つとして説明している。