独善的で独創的で、独裁的。

sentence and photograph

ラトビア語 1 Pirmā nodarbība

Pirmā nodaerbība

 

Haruki: LabdÍen. ラブディエン

こんにちは。

Liene: LabdÍen. ラブディエン

こんにちは。

Haruki: Vai jūs esat latviete? ヴァイ ユース エサット ラトヴィエテ

あなたはラトビア人ですか?

Liene: Jā, es esmu latviete. Vai jūs esat ķīnietis? ヤー エス エスム ラトヴィエテ  ヴァイ ユース エサット チーニエティス

はい、私はラトビア人です。あなたは中国人ですか?

Haruki: Nē, es neesmu ķīnietis. Es esmu japānis. ネー エスエスム チーニエティス  エス エスム ヤパーニス

いいえ、私は中国人ではありません。私は日本人です。

 

単語
  • LabdÍen.  こんにちは。
  • pirmā ピエルマ  1番目の
  • nodarbība ヌゥオダルビーバ  授業、課(女名)
  • vai ヴァイ  か? または
  • jūs ユゥース あなたは
  • esat エァサット あなたは…である
  • latviete ラトヴィエテ ラトビア人女性
  • jā ヤー はい
  • nē ネー いいえ
  • es エス 私は
  • esmu エスム 私は…である
  • ķīnietis チーニエティス 中国人男性
  • neesumu ネエスム 私は…でない
  • japānis ヤパーニス 日本人男性
  • būt be動詞原形

 

人称代名詞

        単数        複数

1人称        es                           mēs

2人称        tu(親しい間柄)   jūs

3人称       viņš(男)             viņi

                             viņa(女)            viņas

自殺を運命づけられている、この世界の住人ではない僕たちへ。

すべてのたましいが帰る場所

 

もともと僕たち(の一部)はここから来た

 

優しすぎる、そんな性質をもった僕ら

 

この世界は何かがおかしい僕らには合わない

 

それは僕たちがおかしいんじゃない

僕たちはこの世界の住人じゃないんだほんとは

 

いまをめいっぱい生きよう

そうすれば

帰れるから

 

アタラクシア

 

平穏 理想郷

 

金銭も性欲も存在しない

 

死後の世界

 

穏やか 優しい 温かい 包み込む 薄紫にかおるただよう

 

許される

永遠

 

お疲れさま いつまでも ここで

 

よくがんばったね

よく戦い抜いたね

こっちが本当の「せかい」だよ

 

トールキンは前の世界、宇宙誕生からアルダ地球の歴史人間の世界が形成される前

 

アタラクシアは死後の世界、すべてのたましいの救済の場

 

いつでもおいで いつでももどってきていいんだよyou can always come back home

 

信じたい

 

とげとげしくない やわらかい 浅ましくない 争いのない 平等

 

ほら君の目にも見えるだろ

目を閉じれば

眼前に広がるこのアタラクシアが

 

わかるだろ

ここが天国とか極楽浄土とかいわれる場所

そしてはじまりの場所であり

おわりのばしょ

 

https://m.youtube.com/watch?v=q8HuT-Gh-wc

幸福論再考(私の幸福論)ー幸福の必要条件について

何を幸福と見なすかは個々人によって違う。幸福の条件は自分で明示的に設定すればいい。それは当たり前だ。ただ幸福な人生に共通する事柄や幸福の必要条件については考察が可能だと思われるので、それについて考える。

また、全編を通じて直覚主義を採用する。アリストテレスも、倫理学はおおまかな概要(真実の輪郭)を示すことができればそれでよく、それが倫理学の目的であると「ニコマコス倫理学」に書いている。

〇人間の徳(アレテー)に従って生きる

アリストテレスの徳(アレテー)についての考察は肚落ちする。すなわち徳(アレテー)が幸福な人生の必要条件であるという論である。ナイフの徳は切れ味が鋭い状態だし、馬の徳はよく走れることである。このような状態にあるとき、ナイフも馬も幸福であるだろう。これは納得する。そのように考えれば、演繹的に人間も人間の徳をもつ(人間本来の力を十全に発揮できる状態にある)ことが幸福な人生の必要条件であると言える。(ただ、枢要徳についてはそれらの徳がその他の徳よりも優れているという根拠づけが曖昧であったり、それら四つを特筆する意義が漠としているため疑問符)

人間の徳とは何か。アリストテレスはそれを「理性」だと考える。動物や植物や無機物と人間が決定的に違うものは何かと言えば、それはやはり理性であろう。すなわち自らの頭で考える力である。これも肚落ちする。

ここで一つの論を提唱したい。それは「理性」や「道徳」に従って生きることが幸福の必要条件の一つであるということだ。

ここでいう「道徳」は、個々人の中にあるもののことで、社会通念上の社会規範とは違う。すなわちその人が本心からこれは道徳的であると考える行為は、その人にとって「道徳」なのである。今回は道徳をこのような「主観的な道徳」として定義する。その意味では、道徳も理性によって規定されるものであるため、理性も道徳も同じような意味として捉えても構わない。

とにかく、人間固有のものである「理性」や「道徳」に従って生きることが幸福の必要条件の一つであると提唱したい。

生きるためには食べることが必要であるため、過度な断食は理性的ではない。ただ、欲望のままに食べ過ぎるのも理性に従ってはいないだろう。そのときに従っているのは理性ではなく本能である。

性行動も、まったくしないというのでは自然に反しているが、常軌を逸した性行動は動物と変わらない。いや、動物でさえそのようなことはしないだろう。ある意味、動物以下であると考えることもできる(このような意味で「理性」や「道徳」に従って生きることは、アリストテレスの「中庸」と似ていると言えるだろう。すなわち行うべきことを、行うべきときに、行うべき分だけ行うということである)。本能は悪であり理性で無理やり抑圧するというのではなく、本能の助けも理性の助けも借りて、よりよい生を実現していくということが大切である。

この「道徳」を醸成したり、「理性」に磨きをかけるために、文学や映画などを利用することが有効であると考える。私は「理性」というものは生まれたばかりの頃は透明(タブラ・ラサとでも言うべきか)であり、その後の経験によって後天的に白くもなるし黒くもなるものであると考えている。文学や映画には広く受け入れられている社会通念や、それが間違っていた場合にそれに対する正義としてのカウンターが色濃く反映されているように思われる。「自分の感性や人生を豊かにするツール」として捉えられがちだが、自らの道徳を醸成したり、よりよい理性を会得するために、これらの芸術作品は利用されるべきであり、それがこれら芸術の存在意義の一つだと考える。

〇自足

もう一つ提唱したいのは、「自足」も同様に幸福の必要条件の一つであるということだ。自足とは、「自分の置かれた状況に満足すること」、「それだけで足りる、十分であるということ」である。「自足」が幸福の必要条件であるというのは、明らかだろう。なぜなら仮に1億円を持っていたとしても、その人がまだそれだけで満足しておらず、例えば10億円を欲していて、仮にその人がその額を手にしたとしても、まだそれで満足していなければ、その人はいつまでも際限なく続く欲望の連鎖に一生苦しめられることになるからである(欲望は叶えられれば快楽となるが、叶えられなければ苦痛となる。この意味でも、具体的な目標を自分で設定することは大切なのである)。だからある程度のところ(或いは自分で設定したところ)で満足する「自足」が幸福の絶対的な必要条件なのである。アリストテレスも「ニコマコス倫理学」の中で、「自足」を幸福の条件の一つとして説明している。

「なぜ働かなくてはならないのか?」に対する2つのアプローチ

なぜ働かなくてはならないのか?働くために生まれてきたわけじゃないのに。

→そもそもこの世界は誰か1人の為にできているわけじゃない。つまり、生まれた時から君のためにできた世界じゃない。

→そんな世界で生きるには、ゲームのルールを守らないといけない。日本において、それは資本主義だ。つまり、お金(資本)を持っているやつが強く、願望と意志の通りに多くを為せる。

→このゲームのルールが嫌だったら、①自殺する(離脱)②海外に逃げる(逃亡)③政治家になってゲームのルールを変える(変更)しかない。

しかし実際は③の「ルールを変える」は今更資本主義を変更するのは無謀だし、大規模な変更でなかったとしても、そもそも実現可能性が低い。①はできれば避けたいし(大抵の場合、自殺が不合理であることは別記事で述べた)、そうすると②しか必然的になくなってしまう。しかし、これも結局資本主義の国家に移住したら同じことだし、それ以外の政治体制は独裁的なものが多く、受け入れてくれるかわからない。受け入れてくれたとしても、常に危険が伴う生活を送らなければならない。

どうしよう。全ての選択肢が詰んでしまった。そこで、考え方の変更、すなわち「なぜ働くために生まれてきたわけではないのに、働かなくてはならないのか?」に対して根本的にメスを入れてみようと思う。この前提、問い方自体が間違っている、或いは適切でない可能性を探ってみる。

・考え方の変更①

→そもそも働くことはそんなに悲観的になることか?資本主義では労働しないと生きられないが、逆に言えば労働して上手くお金を多く稼げれば、より楽に豊かに暮らせる。お金を持った者からすれば、資本主義は天国だ。限度はあるにせよ、すべて願望と意志の通りに行動できる。適度な労働は健康にもよい。働かないためには、と考えるのは大抵の人にとってまだ早い。それは人生が先行き真っ暗になり、詰み状態になって初めて考えるべきことだ(すなわち別記事で述べたように、自殺が正当化される=今とこれから先の人生の質が「存在しないより悪い」ような場合だ)。ただ実際にはこのレベルまで人生が破綻してしまった人というのは多くはないわけで(それでも「生きてるだけで素晴らしい(例え植物状態でも、毎日地獄の痛苦を味わっていても、これから先もそうなるであろうことがわかっていても)」という価値ある器説を受け入れるならば、また話は変わってくる)、それまでは如何にしてゲームの勝者となるかを考えた方が建設的だ(何かしらのゲームを一度でも遊んだことがある人ならば、その中で勝ちたい、強くなりたいという気持ちになるのが自然だということは理解できるだろう)。

・考え方の変更②

→そもそも労働は苦痛か。そりゃ毎日毎日夜勤が続く肉体労働などは、生きるのも苦しくなるくらい精神的に追い込まれるだろう。しかし、世の中には楽しんで仕事をしている人さえいる!そうなれればもはや労働について一切悩む必要は無い。ただそういう人は実際には多くないのが実情で、そうなったら僥倖と言う他ない。

→とはいえ、多くの人にとって「労働の苦痛を減らす」方向に努力することは可能なわけで、こっちの方が再現性は高いと思われる。つまり、自分にはできない仕事を消去法で消していき、まだ出来そうな仕事に注力する。人間、ある一定の時間や労力を注ぎ込むと、どんな活動にも愛着ややりがいを感じてくるもので、働きがいや社会貢献といったことを初めから考える必要はない。どんな仕事であっても、その仕事が存在している以上、その仕事の意味はあり、助けられている人がいる。

→故に自分が出来そうな仕事で、かつ少しでも給料の高い仕事をするのが、楽しめること或いは夢中になれることを仕事にしている人以外の、大抵の人にとって、最善の選択と言えるだろう。どんなに儲かる仕事でも続けられなければ意味が無いし、どんなに続けられる仕事でも、生活出来る資金が得られなければ意味が無い。

→ただ後者の方、つまり「どんなに続けられる仕事でも生活のお金が稼げなければ意味がない問題」はまだ検討の余地がある。働き続けられない仕事ではいくら儲かっていても意味が無いというのは当たり前だが、仮に給料が少なくても、それが少しの差で、仕事量が大きく変わるようなら、給料が少ない方を選ぶ方がよいだろう。また、生活できない給料の仕事というのは実際にはほとんどないわけで(あるとすればそれは必要以上に生活費を要している可能性がある)、もし仮にそうであるならば最低限の生活資金を、続けられる仕事で稼ぎ、プラスアルファのお金は副業などをして稼いでもいいかもしれない。そのような仕事は大抵、副業をする時間や労力を残せる。給料が安く、時間と体力も酷使するような仕事であれば転職した方がよいだろう。そのような仕事を続けることに力を費やすよりも、転職活動や資格取得の勉強などに力を注ぐべきである。

→ただ、以上に述べたことは、すべて仕事やお金に対する「消極的アプローチ」だ。『金持ち父さん貧乏父さん(ロバート・キヨサキ)』を読めばわかる事だが、お金持ちになるという観点から見れば、医者も会社員も、アーティストも国家公務員も同じである(アーティストになれない人も、作家になれなかった人も、別に悲しむ必要も羨む必要もない)。そこには「自分が働いている」という共通点がある。本当に「お金持ち」になるためには、自分ではなく、人かお金に働いてもらう必要がある。すなわち、経営者か投資家だ。これは世界長者番付を見ても一目瞭然である。

→故に、ここで仕事に対するもう1つの考え方、「積極的アプローチ」も考えることができる。積極的アプローチは、どんな仕事に就いてお金をたくさん稼ぐかというのではなく、将来的に経営者か投資家になることを見越して自分の意思決定をしていくものである。確認だが、別にやりたい仕事がある人や、夢中になってやれることがあってそれを仕事に出来そうな人はそうすればよい。ただ多くの人はそうではないと思うので、「消極的アプローチ」と「積極的アプローチ」の2つを紹介しているわけだ。

→「積極的アプローチ」に依るならば、経営者か投資家、或いはその両方になることを目指して意思決定をしていく。経営者ならば、大学の学部は商学部や経済・経営学部といったものにしたり、それ以外の学部でも大学で経営に関わることを学ぶのがよいだろう。大学在学中に起業に挑戦するのもいいかもしれない(実際には難しいが。ただそのような意識を持つだけでも十分に有用である)。そして就職では経営に関わる仕事、或いは経営に繋がる仕事を選ぶのがよい(経営企画部など。経理など→経営企画→CFO→CEOは既にアメリカなどでは主流なルートであり、これからは日本でもこのルートが主流になってくるものと思われる)。投資家ならば、大学在学中のうちから株式投資を始めるなどして、何冊か本を読んだ上で、実践の中で学ぶのが一番よい。ただ、就職の際には、株式投資が禁じられている仕事には就かないようにしなければならない。その意味で、投資家を目指す場合は、株式投資に精通できそうな仕事やお金に関する仕事であっても、証券会社や銀行は就職先として選ばないようにしなければならない。

→別に世界長者番付にランクインするような大金は要らないと言う人もいるかもしれない。いや実際、そのような人がほとんだだろう。ただ残酷なことに、このゲームのルール下においては、少しでも多くのお金があった方が、取れる選択肢もその分だけ増えていくし(哲学を学んだり人生について考えることで、無用な選択肢を増やしたり、あまつさえそのような本質的には自分を幸福に導かない選択肢を選ばないようにすることが重要だということは前提だが)、何かやりたいことや夢、叶えたい・実現したいことがある場合にも、もちろんそのやりたいことの程度にもよるが、ある程度のお金は必要になってくる。それはこのゲームのルールを受け入れる限りは、避けられない現実である。だから、馬鹿みたいな大金(それこそ世界長者番付に乗るような)は要らないにしても、ある程度のお金(世間一般ではそれを大金と言う)は、ほとんどの場合、あった方がいいのである。

→私はお金が欲しい。私にはお金が必要だ。それは決して大金持ちになりたいという野心的なものでも、このゲームの勝者になりたいというものでもなく、詳細は書かないが、夢があるからである。この資本主義というものはある意味残酷で、別に大金を求めていない人にとっても、何かを為そうと、或いは何かをしようとすれば必ずお金が必要になってしまう。私がしたいことも、馬鹿みたいな大金は要らないが、そこそこお金が必要なのである。ただそれに必要なお金が集まったら全額そこに注ぎ込むというリスクも避けたい。ある程度、金銭的余裕をもってその夢を実現させたいのだ。そういう意味では、私もある意味大金を欲しているのかもしれない。そのために、いつでも起業できるように経理知識を身につけ(経理とは経営管理の略である)、或いは社内で偉くなれるように経営の意思決定に直結する経理・財務を目指し(既に述べたが今後はアメリカのようにCFOから社長になる流れが増えてくると思われる)、自分でも株式投資を続けていこうと思う。経理になると貸借対照表損益計算書といった財務諸表にも日々触れることになるため、株式投資にも役立つと思われる(ここで言う株式投資とは、運任せのギャンブル的なテクニカルではなく、論理的なファンダメンタルズである。多くの証券会社の投資部門なども、基本的にはファンダメンタルズのみを採用していて、テクニカルは使うにしてもあくまで短期的な傾向を見るのに使う補助的なものである)。また、メーカーの経理であれば、自社株以外の株式投資が制限されるということもないはずである。